日本人の信仰観について



私はここ高野山に約4年滞在しておりますが、高野山の生活はその歴史と伝統と共にあると言っても過言ではありません。専修学院という修行道場での生活から1年目が始まり、2年目以降の山内寺院での勤務や本山行事への出仕を通じて、私は1200年間続く高野山の歴史と伝統に直接触れてきました。それはこれまで約20年間のサラリーマン生活とは全く異なる、いわゆる古き良き日本の文化に触れている感覚です。

日本の古き良き文化とは一体何か?そしてその根幹にはいったいどのような精神性が含まれているのか?今日はそのあたりについて考えを述べてみたいと思います。


「宗教という言葉」

現代の日本人が大きく誤解していると思われる言葉が一つあります。それは「宗教」という言葉です。もし、皆様の身の周りでいわゆる「宗教をしている方」がいらっしゃるとすれば、多くの方がその宗教をしている方に対してなんとなくの違和感を持っていると思います。でも、一方ではその多くの方がしばしばお寺や神社に参拝するという宗教行為を行っております。この一見矛盾する感覚は、いったいどこから生じているのでしょうか。


「自身の経験」

私には海外在住経験があるため実感があるのですが、海外では「宗教」について話す機会がたびたび出てきます。それは他人種・他文化との交わりが多いことに起因するのですが、その会話はまず「あなたの宗教は何ですか?」という質問に始まります。当時、私は宗教に対しての関心がそれほど高くなかったものですから、長い議論を避ける意味で単純に「仏教」または「神道」と答えておりました。ただ、同時にその回答をしている自分に対して、違和感があったのも事実です。(というのは、そのどちらに対しても決して熱心とは言えなかったですし、さらにどちらか一つという感覚もなかったからです。)そしてその違和感を抱えたまま現在まで至るのですが、高野山に来てようやく一つの答えが導き出せました。もちろん、これが最終的な回答とは思っていません。でも、私と同じような意見を持っていらっしゃる人もおりまして、現状として多少の安心はしております。


「言葉の由来」

現在使われている意味での「宗教」という言葉は、実は幕末から明治時代の初めにかけて英語の「religion」という言葉の対訳として生れました。明治というのはまさに西洋文化吸収の時代で、その際キリスト教も当然ながら流入してきました。実はこの「宗教」という言葉はその当初、キリスト教を中心にイスラム教、ユダヤ教といった一神教を指す言葉であって、そこに仏教や神道といった多神教は含まれていませんでした。しかし時代が下るにつれて、科学や共産主義の発展による宗教軽視の傾向が生まれ、言葉の意味そのものが曖昧になり全てを含むようになりました。


「日本人の信仰観」

一般的な日本人にとっての仏教、神道とはいったいどういうモノでしょうか?それは日常に沁みこんだ生活及び文化そのものと考えて頂くとしっくりくるかもしれません。日本人は遥か昔より仏教や神道の教えを、家族や社会の決まり事として生活の中で自然に実践しています。例えば、現代における学校での清掃活動一つを取ってみてもそうです。例外はあるかもしれませんが、日本以外の国でそれはあくまで清掃担当の職員が行うもので、生徒が行うという事はありません。職員の仕事を奪う事になるからです。しかし、日本では精神性や協調性を養うという意味で生徒が行います。これは完全に禅の思想です。自然を敬う気持ちもそうです。ほとんどの日本人は例えば大きな自然災害がおきても自然が起こしたことだからと言って、決して恨むことなく心の中で受け止めようと試みます。これも仏教や神道の考え方です。

日本人はよく海外の人から宗教に対して節操がないと言われます。それは多くの人がお正月には神社へ初詣に行き、お盆にはお寺とお墓をお参りし、年末にはクリスマスを祝うといった具合だからです。

でも、たとえそうであったとしても、日本人には二つの大きな精神的な柱が存在します。それは「自然信仰」と「先祖崇拝」です。この考え方は西洋の一神教に較べ非常に原始的です。アニミズムと呼べるものかもしれません。西洋の一神教は歴史上世界各地の土着文化を破壊しながらも、大きな広がりを見せてきました。その理由はその教えが非常にシステマチックでどの文化の地域でも通用する普遍性を持っていたからです。ところが、日本の場合はこの原始的な土着信仰・アニミズムが幸運なことに歴史上、他国の文明・文化に完全破壊されることなく現代まで続いてきました。第2次世界大戦以降は西洋の個人主義的な考え方が広がり、家庭も核家族化が進行し古き良き日本の家族体系や社会システムが崩れてきていますが、それでもこれらの精神的柱の考え方はまだ健在です。

改めて申し上げますが、日本人にとっての信仰観とは日常の生活や文化と掛け離れた何かを一生懸命に信じるというものではなく、もっと自然に溶け込んだ「伝統」という形で守っているものなのです。そして、それを「宗教という言葉で表現していなかった」というだけなのです。日本人は実際のところ十分に信仰深いのです。

しかし、現代の日本人はこの「宗教」という言葉を不用意に使用しています。実際は信仰心があるにもかかわらず、その感覚を上記の形で認識していないために、西洋の一神教も仏教も神道も新興宗教も全て一括りにまとめて誤解を招いているのです。

一神教を示す「宗教」と日本人の「信仰」は全く別定義のものです。

あと、付け加えとなりますが柔道、剣道、茶道、華道というように「~道」というのも典型的な日本人の精神性や信仰観を象徴するものかもしれません。


「日本人に宗教は要らない」

「宗教」は日本人には馴染まないものです。土着の文化を無視、または軽視してこれを信じなさいと言う排他的な一神教の教えに、多くの日本人は拒否反応を示します。だからこそ、安易に新興宗教にはまり込む人や熱心なキリスト教徒に対して、何となくの違和感を抱くのです。

日本人にとって必要なことは、祖父母や両親そして社会から学んでいる昔からの教えをしっかり守り、それを後世に伝えていくことです。決して頑張って「宗教をする」必要はありません。本来はただ、自然体であれば良いのです。

最後になりますが、私はいま、その外国人に言われる「あなたの宗教は?」という質問に対しては「I’m not religious but spiritual.」と答えています。ただ、spiritualについての説明は必要で、「自然信仰」「先祖崇拝」としっかり付け加えておりますが、これが今のところ私にとって最もしっくりくる回答かと思っております。


山本 海史 Kaiji Yamamoto

サラリーマンでもあり、高野山真言宗僧侶でもあり・・・現在は主に高山を拠点に活動中!

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