般若心経について
般若心経は多くの仏教経典の中でも最もよく知られたお経です。
全文を暗記している方をたまに見かけますし、また暗記まではいかなくても
「色即是空 空即是色」等の一部の言葉だけは知っているという方も多いのではないでしょうか。
お経の歴史と大乗の特徴 そして信じることの大切さ
このお経、お釈迦様のおられたインドを発祥としますが、大乗仏教が普及している地域、中国・チベット・中央アジア・朝鮮・ベトナム・日本において広く詠まれています。と申しますのも、成立したのはお釈迦様が涅槃に入られて以降、その大乗と上座部に仏教が分かれた後の話だからです。大乗仏教は、信仰的で神秘性を重視する派で、論理的でかつ現代風に言うところの科学的な上座部仏教と大きく異なります。
日本において般若心経を大切にしている宗派は主に曹洞・臨済等の禅宗系、真言・天台等の密教系の二派になりますが、この二派はそれぞれ重視している点が異なります。
禅宗系では「色即是空 空即是色」等の空の部分となり、そして密教系では最後の「ギャーテーギャーテー・・・」という真言となります。この真言、全く意味の分からない不思議な感じがします。これは原語であるサンスクリット語をそのまま音写していて、日本語には無い不思議な音こそが神秘性を増大させ、より信仰的である大乗の「信じる者は救われる」という発想を強くしていったと考えられます。
お経の内容と読誦の功徳について
内容について大雑把に申し上げますと・・・
「観自在菩薩は般若波羅蜜多の修行を行って全てのモノゴトは空であると悟りました。
最上の悟りを得るためには般若波羅蜜多の修行を行う事です。嘘じゃないですよ。本当ですよ。だからこの真言(呪文)を唱えましょう。さあ!羯諦羯諦(ぎゃーていぎゃーてい) 波羅羯諦(はーらぎゃーてい) 波羅僧羯諦(はらそうぎゃーてい) 菩提薩婆訶(ぼーじーそわか)!」と、こんな具合です。
空が強調される禅宗系では座禅を修業の要とし、密教系では真言を唱え続けることをその中心としました。ただいずれにせよ、この大乗仏教ではより多くの普通の人々を救済することを目的としたので、人々に上座部のような出家者用の難しい修行を行わせることはしませんでした。その代わりに人々が仏道修行として取り組みやすいコトを作り出していきました。例えば、善行(利他行)を通じて功徳を積み、その功徳をもって業(例えば、過去の過ちの連鎖)を絶ち、悟りに達する。ですので、般若心経の読誦も当然その利他行の一つとなり、そしてご先祖様のご供養(ご先祖様への利他行)にも繋がるわけです。
般若波羅蜜多とは
では、般若波羅蜜多とはいったい何でしょうか?
それはズバリ「仏=宇宙や自然との一体化」を感じるといったところではないでしょうか。この世のすべては相対的であり、常に変化をするだけ。永遠に変わらないというモノゴトは存在しない。つまり自分という存在も実は毎秒ごとに変化し、変わらない自分は存在しない。(=諸行無常)
この考え方から人々は「老いたくない!」、「死にたくない!」「自分は自分!」とつい考えがちではあっても(=一切皆苦)、修行者は禅や真言を通じて宇宙や自然と一体化・同化(=諸法無我)し、そしてそこから自身が愛や慈悲を常に受けている存在であることを感じようとする。(=涅槃寂静)またはそこまで感じられなくても、この大乗仏教ならではの読経による功徳に感謝してその有難さを更に他の人々や自身の子供にも伝えていく。それらを仏道修行としたのです。
≪宇宙や自然との一体化って???≫
宇宙や自然との一体化を感じるとは具体的にどういう事でしょうか?
それはきっと千差万別・十人十色なのかと思います。人の感性はそれぞれですから・・・。
まさに神秘です!
人間以外の生物は死というものを生きている間に想像することはないと思われます。これは自我を持つことがないからともいえるのではないでしょうか。
ただ、実はそれこそが最も自然な形で、むしろ人間の方が不自然と言えるかもしれません。
自我がないがゆえに生物として最も基本的なことだけを営み、そして死を迎える。宇宙の中の一つの存在としてその役割を担っていく。人間も本来はそのようになっているし、自身で自覚がなくとも、実は自然の法則に則って一生命としての一生を終えていくものとも感じます。
ただ、人間は自我があるがゆえにどうしても、自身を中心に物事を考えてしまいます。
それゆえ、例えば自身の思い通りにならないことに対して不安を、時には怒りを覚えたりします。それは死に対しても同じです。死を想う時、自身の消滅に対してどうしても不安と怖さを覚えます。
しかし、その消滅はそれ自体が実は消滅ではなく、つまりゼロにはなるわけではなく・・・あるのはただ変化のみ。般若心経では物質はもちろんの事、精神(心)もそれに含まれるとうたわれています。これを感じ、理解する。つまり、自身が大宇宙や大自然の仲間であるということを感じ取り、その感じ取ることで安心ができるということなのだと思います。
本来は名前もいらない。社会性もいらない。思うままに生きる。何のわだかまりもなく自然に生きて自然に死ぬ。ただし、「他のために生きる(特に次世代を育てる)」ということは生命の使命として組み込まれている感じがします。自分自身が他の生物の命を頂いて生きる(「いただきます!」の意味)ように自分も自身の命をベースに他を生かす。この流れこそが生命の営みの根本であると私は感じます。
水が氷や蒸気のように形を変えても実際は常に同じものであるように、人も自然の一部として自然から現われ自然の中に生き自然の中に溶け込んで逝く。
心も体も一時的にその形をこの世に現すだけ。
我々は常に一心同体、愛されている存在なのだと。
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