日本人の信仰観の源流を求めて
以前このブログにて「日本人の信仰観」について書かせていただきましたが、その後も私の考え方や心の感じ方に変化はありません。むしろ、そこへの興味は最近ますます大きくなって来ております。
実は先日約3年遅れではありますが、初めて「君の名は」という映画を見ました。
去年11月に高野山を下り東京の会社に就職し、この2月より飛騨高山に赴任して参りまして、そのご縁からこの映画を見ることになったのですが、あまりに面白いので結構ハマってしまい・・・それこそ今日までに何回見直しているかわかりません。
ストーリー、映像、音楽すべてが最高です。この前もつい聖地である飛騨古川まで行ってきてしまいました!そしたら、3年たった今でも結構ファンが巡礼しておりまして・・・ビックリです。
そしてこれも相変わらずですが、私自身の興味はいま、そこに描かれている背景というところに至っています。
見えてきたその背景とは、ズバリ「古(いにしえ)の日本人の信仰観」です。
それはこれまでずっと私自身がテーマにしていることでした。
そして、最近の私自身にわかってきている日本人の信仰観に関する感覚は「感じる」です。
私は、この日本人にとっての信仰観は「感じる」ということに尽きるのではと思っておりまして、それは例えば一つの質問として、人々の生活の中で既に亡くなった祖父母や両親を「感じることができるか?」というようなことになります。そして、その問いに「感じる」とポンと答えられる人は極めて日本人的感覚を持っていると思っております。
(質問する相手が子供の場合は、そういう親に育てられているかに尽きます。)
ヨーロッパのキリスト教のように固有の文化とかけ離れた外来のイデオロギー的なものを頑張って「信じる」といったものでは決してなく、つまり日常の生活に染み付いた固有の文化習慣としてのあってあたり前、いてあたり前の存在をいかに感じるかなのです。
そして、その感じる対象は人から他の動物・植物、そして自然・宇宙そのものでもあります。
人々は古代から現代に至るまでそれらの力(念・想い)に対して常に畏敬の念を持ちながら、その力との「むすび=ご縁」を「感じる」のです。
高山市内から東へ車で20分ほど行ったところに日輪神社という小山があります。この神社はちょっと特殊で、その小高い丘のような山そのものが信仰の対象となっております。通常、神社には拝殿や本殿があるものですが、そこの神社はそこまで立派なものはなく、どちらかというとみすぼらしい感じで、ひっそりと山腹にたたずんでいました。更には鳥居ですが、これも確実に現代に近い時代になってから作られたと思われるものが山の外にあるだけで、境内にはどこにも見当たりませんでした。つまり日輪神社はいわゆる通常の神社の体をなしていなかったのです。しかし、この神社というか文字通りカミの社としか思えないこの神聖な場所は、むしろその山全体に力がみなぎる感じでした。雰囲気はむしろちょっと怖いくらいだったかもしれません。
それともう一つ、位山(くらいやま)は近々訪れたいと思っている場所です。飛騨一之宮水無神社のご神体として仰がれるこの山も非常に興味があります。
実はこれも最近驚いたのですが、歴代すべての天皇陛下はこの「位山」の櫟(いちい・一位とも書く)の木から作られる笏を手にして大嘗祭に臨まれるとのことなのです。
飛騨はその遥か遠い昔、大和朝廷に滅ぼされた先住民族のいた土地なのだと聞きました。
天皇陛下が用いるこの位山の笏には何か特別な意味が込められているのかもしれません。
位山に登り何を感じることができるか・・・本当に楽しみです。
私はこれまでの数年間に高野山を拠点に天野、吉野、天川、熊野、伊勢、橿原、三輪、奈良、京都、大原、比叡山など本当に様々なところを参拝させて頂いてきました。この飛騨の土地は何か次へのステップとしての拠点になるように思えてなりません。
この日本人の信仰観は世界でもまれにみる、おそらくはすべての国民国家を形成する文化圏の中で唯一アニミズムの考えを色濃く残す信仰形態と思われます。
現在の日本人に、その信仰はまだ日々の生活の中に残されています。
そして、今回この飛騨に残るこの日輪神社の姿はまさに日本人の信仰形態の原型を見る具合でした。
「感じる力」をもっともっと磨いていきたいものです。
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